事務所の掃除をしていると、廊下を歩く音が聞こえた。
掃除の手を止めて、扉の方へと視線を向ける。足音は聞き慣れた歩み。ああ、帰ってきたのか。それならご飯の用意でもするか、とドラルクは扉に近づいた。
事務所の扉が開き、いつものように声をかけようとした。
しかし。
「……なんだね、それは」
口から出てきたのは、予定していた言葉ではなかった。
「あ?見てわかんねーのかよ」
見えたのは、見慣れた赤いコート。
そしてその腕には。
にゃあ。
薄汚れた白猫が抱かれていた。
「おお、本当の君は美しいね」
ホコリだらけのロナルドと猫を風呂場に直行させ、先に出てきた猫を受け取った。ソファの前に座ってドライヤーで毛を乾かしながら、ドラルクは嬉しそうに笑う。ソファに座らなかったのは、うっかり暴れられたりでもしたらソファが濡れてしまう可能性を考えたからだ。
しかし人馴れていたその猫は風呂場でもドライヤーでも暴れることなく、大人しくされるがまま。時折気持ちよさそうに目を細めて喉を鳴らす仕草に、ドラルクは細い指でその体躯を優しく撫でた。
先程まで薄汚れていた毛は、ふわふわの真白。カチリ、とドライヤーの風を止めると、にゃあ、と鳴いたそれはドラルクの膝に乗ろうと前足を伸ばしてきた。
「人馴れしているねえ」
にゃあ。
子猫、よりは少し大きめか。ゆっくりと膝の上に乗ってきた猫の背をドラルクはゆるりと撫でる。
綿のような毛は、自分の使い魔の腹毛と並ぶくらいに柔らかい。こんなことをあのヤキモチ焼きの使い魔が知ったら、きっと勢いよく怒って拗ねてしまうだろうかと考えたら少しだけ楽しくなった。
「君も可愛いけれども、私の使い魔が一番かわいいからね」
にゃあ。
この反応はどういう反応なのだろうか。使い魔ではない動物の言葉はドラルクにはわからない。
床に正座して座っているところに乗られてしまったので、さてこのままだと自分の足が悲鳴を上げて死んでしまうだろうかとも考える。子猫より少し大きめとはいえ、じんわりとは重いのだ。
けれども風呂場の扉が開く音がして、少しだけ安心した。
「お、乾かしてくれたのか」
「濡れたまま放置したら大変だろう」
ようやく風呂から上がってきたロナルドの声に視線を向けて、それでも猫を撫でる手はそのままに。
「まあそうか」と頭にタオルを被ったロナルドが横にしゃがみ、猫に手を伸ばして顎を撫でる様子を見やった。
「君も乾かしなさいよ。ほら」
ぽたりと落ちた雫に片眉を上げると、横においたドライヤーを手渡す。
気持ちよさそうに目を細めた猫から手を離したロナルドは、それを受け取るとソファに座ってドライヤーのスイッチを入れた。
にゃあ。
鳴いた猫は、ひょいとドラルクの膝から降りるとソファに座ったロナルドの足元に向かい、ぴょんとその膝へと飛び乗る。身軽だなぁとそれを眺めつつ、自分の足の限界が来る前に退いてくれたことにドラルクは小さく息を吐き出した。
「お?なんだ?」
「ロナルドくんがいいみたいだな。ゴリラだけど握りつぶされないように気をつけるんだよ」
「んなことするかよ。死ね」
少しだけしびれていた足は、ロナルドの拳によりデスリセット。
「お前、かわいいなぁ」
「君、本当に可愛いものが好きだね」
「お前に言われたくねぇな。かわいいは正義なんだろ。んー?なんだ?撫でてほしいのか?」
ドライヤーのスイッチを止めて猫に手を伸ばすロナルド。目元を下げてデレデレした顔をする様子に、砂から復活したドラルクは立ち上がり、ソファの後ろに回って背後からドライヤーを手に取った。
「まったく。五歳児め」
呆れたように肩を竦め、ドライヤーのスイッチを入れるとロナルドの髪へと風を当てる。
「で?その子はどうしたんだ?」
「あー、ちょっと依頼でな」
「君は退治人であって、探偵ではないだろう」
「うっせーな。退治の依頼のついでなんだよ」
「ほう?それで?結局その子はどうするんだ」
「あー、依頼人には連絡してあるから、昼に迎えにくるってさ」
「それなら良かった」
ドライヤーの風が止まり、猫と同じようにふわふわになったロナルドの髪に骨ばった指を差し入れる。天然パーマといってもそこまでひどくはないロナルドの髪は案外柔らかい。
「はい、終わったよ。髪くらい自分でちゃんと乾かせ。手のかかる五歳児」
「お前が勝手にやったんだろ。まあサンキュな。ところでジョンは?」
「今日は腕の人の家に泊まってくるって言っただろう。マナーくんと遊ぶんだそうだ」
「あー。そういやサテツがさっきそう言ってたな・・・なあ、ドラ公、腹減った」
「本能のままにしか生きとらんな、ゴリラが。・・・たまごの賞味期限が危なかったから今日は親子丼だ」
「やった!……って、あれ?」
「なんだね」
喜んだ声を上げたと思ったら今度は不思議そうな声を出すロナルドに、キッチンに向かおうと足を向けたドラルクは立ち止まる。
見れば、ロナルドの膝の上の猫が丸まって目を伏せていた。呼吸に合わせてふわふわの毛が上下に揺れている。
「寝た?」
「寝たみたいだな」
「退かしたら起きるか?」
「だろうね」
「いや、でも、飯」
眉を下げて見つめてくるロナルドの様子に、ドラルクは怪訝そうな顔をするもすぐに「ああ」と思い出す。
そういえば先日、ジョンとゲームしながらソファでご飯を食べていたロナルドに対して「ダイニングテーブルでちゃんと食べろ!」と怒ったことがあった。ベッドにも使っているソファで食事をすることが、ドラルクには好ましくなかったからだ。
「ドラ公……飯…」
眉を下げ、めしょ…、と泣きそうな顔をしているロナルドをみて、ああ本当にこの五歳児ゴリラはどうしようもないとドラルクは口角を上げる。すぐ暴力に訴える暴力ゴリラくせに、その中身は善性の塊で、お人好しで、五歳児で、手がかかる。太陽の下、青空の下で笑う姿がとても似合う、どうしようもなく、かわいい昼の子。
膝上で寝入る猫にだってその善性は遺憾なく発揮される。きっと退かした瞬間は目を覚ますだろうが、ソファに下ろしてしまえばすぐにまた眠りにつくだろう。連れてきた時点であれだけ人馴れして、自分やロナルドの膝の上に乗ってくるような肝の座った子なんだから。
けれどもロナルドはそれができない。優しさの塊、具現化したようなこの男には。
「……君は本当にどうしようもないな」
「腹へったぁ……」
「めそめそ泣くんじゃない。今日丼ものでよかったな。さすが私だ」
「え?」
「丼ならば手に持って食べられるだろう?大人しくまってろ五歳児」
ドラルクの言葉にロナルドは一瞬不思議そうに目を瞬かせるも、その意味を理解するとパアッと笑顔を浮かべた。
「ドラ公ー!!」
「叫ぶな馬鹿者」
キッチンに向かうドラルクの背中を見送り、ロナルドは膝の上の猫を改めて撫でる。
寝てるはずの猫が、にゃあ、と泣いた。