高校生の頃、図書館で夜空を歩く写真集を見た。
実際に空を歩いてるわけではないが、紙面いっぱいの星空だった。ページをめくる度に、本当に自分がその場所を歩いているような感覚になって、ガキ臭いとは思うがワクワクした。
だから、今目の前にある風景がそれと重なった。
視界いっぱいの星空。遮るものは何も無い。
ワクワクした。楽しくなった。
「ロナルドくん、大丈夫?」
繋いだ手をぎゅっと握り、横から声をかけられて顔を向けた。そこにはいつもの見慣れた同居吸血鬼であるドラルクの顔。少しだけ心配そうに俺を見ている。いつもと違うのは、その背中に羽が生えていることだ。黒く大きな蝙蝠の羽。
「手、離すなよ。流石の君でもこの高さから落ちたら命に関わる」
言われて足元に視線を落とすと、地面というか恐らく高い木の先がかなり遠くに見える。確かにこの高さから落ちたらやばいかもなと、何となく繋いだ手の力を少しだけ強くした。
「一応死ににくくはなってるけど、あんまり強く掴まないでくれ」
「要望多いな」
「当たり前だ。私だぞ。いつ砂になってもおかしくないんだから」
「そしたら二人で真っ逆さまだな」
はは、と笑ってみせるとドラルクは不機嫌そうに眉を寄せた。
「嫌だよ。そんなの」
「じゃあ死なないように頑張れよ。高等吸血鬼サマ」
事の始まりは、二時間ほど前。
今日はジョンがフットサルの合宿だからと二人きりだった夜食の後に、台風ことドラ公の爺さん突然が訪れたことから始まる。
『ヘロー、ドラルク、昼の子。お暇?』
「ヴァーーーー!ひ、暇じゃねえ!」
「御真祖様?!またどうしたんですか、突然?!」
『面白いもの作ったから、ドラルクにあげる』
爺さんが取り出したのは、栄養ドリンクくらいの大きさの瓶だった。差し出されたドラルクは訝しげにそれを眺めて「これは?」と問いかける。
『翼をさずけるもの』
レッド〇ルじゃねぇか!とツッコミそうになったけど、何とか堪えた。
「翼?」
『飲んだら、蝙蝠の羽が生える』
「誰に」
『ドラルクに。昼の子が飲んだら、多分死ぬ』
だって人間だから、と付け加えられたけど最初からそんな怪しいもん飲むわけないから安心してくれ。
「蝙蝠の羽、ですか」
『うん。ドラルクに羽が生えて、ドラルクが触れているものも全部飛べるようになる』
「全部?私が触れていれば?」
『そう。昼の子に触れている間は、昼の子も飛ぶ、というか、浮く』
その言葉に、ドラルクの表情が変わったのを俺は見逃さなかった。
楽しいこと面白いことを思いついた。そんな顔だ。
「頂いておきます。ありがとうございます、御真祖様」
『うん。楽しく使って。一応効果は四時間くらい。あとついでに死ににくくなる薬もあげる。バイバイ』
どうやら今日はドラルクにその怪しい薬を渡しに来ただけらしく、爺さんは大人しく帰って行った。
「お前……それどうすんだよ。怪しくねぇの?」
『まあ今まであの人が作ったものでも、命に関わったことはないからな。怪しくないわけじゃないが、大丈夫だろう。というわけで、ちょっと出かけようか。ロナルドくん』
「は?どこに?」
『星空デート、しよう!』
にっこりと楽しそうに笑ったドラルクの提案に、乗ってしまった俺も俺だとは思うけれども。
薬を二本飲んだドラルクは、本当に背中に蝙蝠の羽が生えたし、死ににくくもなった。狭い事務所の中でバサバサと羽を動かして確かめたドラルクの手を取ると、ふわりと体が浮いた。
試しに一度離したら浮かなくなったので、爺さんの言った通りドラルクに触れていれば浮くらしい。
「で、どこ行くんだよ」
『流石にシンヨコの空でフワフワしてたら見つかりそうだしねえ』
「あー、じゃあお前の城跡は?」
『いいね!そんなに遠くないし。よし、じゃあ行こう!』
ドラルクの城跡までは、車を借りて向かった。羽の大きさは意識的に変えられるらしく、行動はともかく爺さんがすげえ吸血鬼ってのを改めて実感する。
最近来ることのなかった山道を走って崩れた城跡に到着すると、ドラルクは「懐かしいなぁ」と笑った。
俺はここに来る度に色々考えちまうけど。
「よし!じゃあ行こうか!ロナルドくん!」
そして、今に至る。
指先だけでもドラルクに触れていれば、どうやら俺は浮くらしい。しかし、離れそうになるのを嫌がったドラルクが、ずっと右手を握っていた。
手袋はない方がいいだろうと、骨ばった素手をずっと繋いでいる。
ふと空を見上げると、シンヨコでは見られない数の星が視界に入った。その光景に思わず息が漏れる。すげえ。
『どうしたの?』
「すげえな、空」
『うん?ああ、そうだね。ここは周りに光がないから星が綺麗なんだ。でも私はずっと見つめてると数えそうになるからあんまり見ないようにしてるんだけど』
「ざーこ」
『やっぱり落とそうかな』
「やれるもんならやってみろ。できねぇくせに」
俺は繋いだ腕を引っ張り、体勢を崩したドラルクの頬に唇を当てた。
バサ、と大きく羽を動かしたドラルクは、見る間に顔を赤くする。月明かりのおかげで、いつもと違いそういうのがよく見えた。
『うわー、本当にここ数年でこういう事覚えてきたな、若造め。どこの誰に教えてもらったんだか』
「お前だお前。なあ、ドラ公。もうちょっと上行けるか?」
『えー……あんまり上に行くと本当に危ないと思うんだが……』
「お前が手を離さないなら大丈夫だろ」
今度は繋いだ手の指先に、ちゅ、と音を立ててキスをすると「もー!」と文句を言いながらバサリと羽を動かした。
引かれるようにして更に上へと上がっていく。
ドラルクの背後の星が、更に近くなったような気がした。実際にはそんな事ないって分かっているけど、そんな気がしてワクワクした。
『ふふ、子供みたいな顔してるな。ロナルドくん』
「仕方ねえだろ。こんなん、楽しいに決まってんだから」
『楽しい?』
「人間は空なんか飛べねえんだよ」
『でも今は飛んでるな。ふはは』
「うお?!」
ぐい、と勢いよく引っ張られて、ドラルクと視線があった。
『踊ろうか。ロナルドくん』
「は?俺ダンスとか踊れねぇぞ」
『教えてあげる。右手はここ。羽の付け根辺りに置いてね。はい、左手ちょうだい』
浮いたまま、ドラルクの脇下あたりに右手を持っていかれて、言われた通りに肩甲骨の下あたりに置く。左手も目の前に差し出すと、親指の付け根あたりをくっつけるように握られた。
『はい、いくよ。スリーカウントだけなら行けるでしょ、君でも』
「え、ちょ、え、ドラ公?!」
ドラルクにリードされて、体が動く。足がもたついたが、地面についているわけではないからつんのめったりすることはなかった。くるくる。ふわふわ。踊ってると言うより手を繋いで回っているだけだったけど、楽しくなる。
『あはは!ロナルドくん上手いじゃないか!』
「うははっ、目え回るわ!」
くるくる。ダンスなんて知らない。時々事務所でコイツと遊びでダンスバトルしたりはするけど、それとは違う。
ふとドラルクごしに空を見ると、真ん丸な月が目に入った。
綺麗だ。
「月、綺麗だな……」
『しんでもいいよ、って答えるべき?』
俺の言葉にテンプレ化した答えを返してきたドラルクが、動きを止める。月を背に、蝙蝠の羽を広げて空に浮かぶドラルクは、なんだかいつもと違って見えた。
自分とは、本当に生きる世界が違うのだと。
思ってしまった。
だけど、ふるり、と一度頭を振ってその思考を捨てる。
「ドラ公」
『うん?』
握っていた手を離して、細い両脇を掴んで抱き上げる。
『うわ?!な、なに?!ロナルドくん?!』
「好きだぜ。ドラルク」
『へ?!』
「好きだ、ドラルク」
『……なんだね、急に』
「好きだぜ?」
返して欲しい言葉はひとつしかなくて。それ以外は聞くつもりはなかった。
抱き上げたまま、ダメ押しのように顔を覗き込むと、うぐ…と口ごもった後、抱きついてくる。
『私もにきまってるだろう!好きだ!』
空中ではうまく支えきれなくて、珍しく後ろに倒れてしまったけど浮いているから問題ない。
ぎゅう、といつもより少しだけ強く抱きしめて空を見る。
昔見た星空に、ドラルクと一緒にいれることがとても嬉しくて、少しだけ泣きそうになった。