「だって、君は私のものにはならないじゃないか」
眉を下げて言われた言葉に、即答できなかった。
「吸血鬼はね、執着が強いって教えただろう?」
「でも」
「君が私のものにならないのなら、いつか誰かのものになるのだろう。そんなの耐えられない」
止めなければ。その細い手を掴んで、引き止めて、出ていかせないようにして。
頭ではそう思っているのに体が動かない。
「わかんねえだろ、そんなの」
「わからないということは、可能性があるという事だろう」
「屁理屈じゃねぇか」
「屁理屈で結構。それでも、塵ほどの可能性でもあるのならば、もう私は君の傍にはいない。いたくない」
「なんでだよ。お前俺の事好きなんだろ!」
「大好きだ。私は君を愛してる…だから、ダメなんだ…」
「好きならなんでだよ!俺は…っ、そばにいたい!そばにいて欲しい!好きだ!わかってんだろ!?」
「それでも君は私を置いていくだろうが!!」
聞いた事のない大声でドラルクは叫んで、少しだけ砂になりながら涙を流す。言われた言葉が、強く刺さった。何が言いたいのか理解出来たから。
俺は人間で、退治人で、こいつは吸血鬼で。
「人として死にたいのだろう。君は」
「…それは」
「私を置いていくだろう」
「でも」
「ならば、これ以上君に私は執着をしたくない。吸血鬼だって情はある。愛しいものを失って、何事もなく過ごせるほど、私は強くない」
「…俺は、吸血鬼には…」
「うん。知ってる。だから」
「それでも、俺はお前にここにいて欲しい…!」
「…君のそういう我儘は、初めて聞いたね…」
くしゃ、とドラルクが辛そうに笑う。その笑い方は、俺の知らない笑い方だった。
「ずっと、お前の傍にいたいんだ」
「うん、知ってるよ」
「……ごめん」
我儘だというのは十分分かっていた。
苦しくても耐えろと、この享楽主義の吸血鬼に言うことがどれだけ理不尽かも。それでも、俺の我儘な言葉に対して、ドラルクは責めなかった。
「ごめん、ごめんな」
泣き崩れて、みっともなく縋り付く俺に、ドラルクはもう一度キスをした。
「さようならだ、ロナルドくん」
ドラルクが出ていった後、一人部屋で泣いた。後悔と哀しさと愛おしさでぐちゃぐちゃになったまま、声を上げて泣いた。
泣いて、泣いて、泣き疲れて、いつの間にか寝ていた。
起きたらもう夜は明けていて、カーテンの隙間から見えた空は白み始めていた。
夢だと思いたかったけれど、まだドラルクの匂いがする部屋に現実を叩きつけられる。
「俺は……」
あの吸血鬼が大切だった。それは間違いない事実だ。それでもあの吸血鬼に執着をしないと言ったことを撤回する気はない。
だって、あいつの言う通りだ。俺は人間であいつは吸血鬼で、いつか必ず置いていく。
でも、それでも。
「ずっと傍にいたいって、言ってくれよ……」
好きも愛してるも沢山言われたけど、アイツはこの言葉だけは言わなかった。ずっと、という言葉が何を示しているのかを分かっていたから。
「…どら…こっ…!」
ポタリと床に涙が落ちた。
現実と、自分の信念と、色んなものがままならなくて唇を噛む。
棺桶の置いてあった場所に残る床の傷を指でなぞり。
俺は、どうしたらいいのか分からずに、置いていかれた子供みたいに、ただ、泣いた。
あいつがいなくても、時間は過ぎていく。
棺桶も、ジョンの寝床もない。キンデメも、死のゲームも、メビヤツもあいつは連れて行ってしまった。
風呂場にあったわけわからないボトルも、クローゼットの中の服も、キッチンにいつも置いてあったエプロンもなくなっていた。
残されたのは、食材が入らないと駄々を捏ねられて一緒に買った大きな冷蔵庫と、あいつが壊したせいで買い直した洗濯機と、昼更かしさせろと通販でかった遮光カーテン。
そして、床に残る棺桶の傷。
最初の一日は泣いて過ごした。情けないと自覚しながらも、涙が止まらなかった。何もできなかった。泣いて、泣いて、疲れて寝た。
二日目は、兄貴が訪ねてきた。冷蔵庫の中にあいつが作り置いた保存食があるのを知った。兄貴の前で泣きながらそれを食べた。
三日目は、フクマさんから電話があった。ロナ戦をどうするかという話だった。書き続けられるか分からなかったけど、ロナ戦は俺の話だし、このままやめるというのは違う気がした。そう伝えたら『次の締切は、ロナルドさんが書き終わったら、にしましょう』と言われた。
四日目は、やっと風呂に入った。冷たいシャワーを浴びて、少しだけ頭がスッキリしてきた。冷蔵庫の作り置きは、冷凍保存されているものもあると知った。
五日目は、やっとカーテンを開けた。久しぶりに見た外の明るさに目の奥が痛くなった。玄関から事務所へと足を向けた。入り口にメビヤツがいないことを改めて実感して、少しだけまた泣いた。
六日目は、久しぶりに退治人服に袖を通した。あいつが出ていく前に洗濯したのだろう。汚れもなく先日ひっかけた綻びも直されていて、また鼻の奥がツンとした。
七日目。
冷蔵庫と冷凍庫の作り置きは全部なくなった。事務所にも住居スペースにもホコリが溜まってきた。掃除をして、窓を開けて。あいつの気配が本当になくなった。お守り代わりの等に買っておいて封を開けていなかったタバコとライターを事務所の引き出しから取り出して、夜はギルドへと向かった。
「よお、ロナルド。元気か」
「ちょっと痩せたな…、流石に」
ショットとマリアに顔を合わせてそう言われて、適当に返事を返した。ギルドの前で少しだけ入るのを躊躇ったが、それでも扉を開ければいつものメンツがそこにいて、アイツがいてもいなくても変わらない生活があるのだと思い知る。
ギルドのカウンター。いつもの定位置だった席へと座り、タバコに火をつけた。紫煙を吐き出しても、灰皿を出してくれたマスターに礼を言う。
マリアが黙って俺の頭を掻き回してきたのを、どこか他人事のように感じていた。
「ロナルド」
「ん?」
ふと、マリアに話しかけられた。あいつと同じ真っ赤な目をした退治人は、真剣な目でこちらを見る。
「お前さ、吸血鬼になる気ねーのか」
「……は?」
何言ってんだ?と口に出そうとしたけれど、マリアの真剣な顔に何も言えなくなる。ショットもこちらをじっと見て、口を開いた。
「お前が悩んでんのは分かってる。でも、お前が吸血鬼になれば、ドラルクは戻ってくるんじゃねぇか?」
「……」
人として生きたい。転化はしない。そう選択したからあいつはいなくなった。ずっと共にいられることが出来ないから。
「人間じゃ、長く一緒にいられねぇんだ」
「……分かってる。でも、それは出来ない」
「ロナルド」
「俺は人として生きたい。死ぬなら退治人として死にたい。それは曲げられない」
「それでドラルクを失ったのにか?」
「わかってる」
「お前…何にもわかってねぇだろ!一緒にいたいんじゃなかったのかよ!大切に思ってたんじゃなかったのかよ!アイツのこと、ドラルクのこと好きだったんだろ!なのになんで……ショット!お前もなんか言えよ!」
マリアに名前を呼ばれて、ショットはハッとした顔で俺を見た。心配されているのは分かっていた。それでも、その心配する気持ちが俺には重いのだ。人として、吸血鬼と関わらず生きていきたいと思う気持ちも、分かって欲しいと思う気持ちもある。どちらも選べない俺の選択を、受け入れて欲しいと思う我儘だっていうのも分かっている。でもやっぱり無理だった。
「お前らが心配してくれてんのは、よくわかってる」
「だったら!」
「分かってる!でも、無理なもんは無理だ。吸血鬼にもなりたくないし、人を辞めるわけにもいかない。俺は退治人として生きて……死にたい」
「……そうか」
マリアが呟いたのを最後に、事務所に静寂が訪れる。ショットとマリアが何か話しながらギルドを出ていった後、マスターとシーニャだけが残っていたギルドの中で、タバコをさらに一本吸ってから俺もギルドを後にした。
「馬鹿だよな、俺」
一人、静かな夜道で呟いても、誰も返事はしてくれなかった。少し肌寒い風が、俺の頬を撫でていっただけだった。
次の日からも、俺は退治人として街に出た。あいつのいない生活は酷く静かで落ち着かないものだったけれど、それでも俺はこの街を守らなくてはいけないから。
それから、あいつがいなくなって三年ほどが経った。
ロナ戦はなんとか続けていた。あいつのことは『突然姿を消した』として書いたせいで一時期発行部数も減ったが、それでもファンはついてくれていた。
タバコの数も増え、俺の生活はあいつが来る前に戻っただけだった。
そんな時だ。大型の吸血鬼の出現と、下等吸血鬼の大量発生が同時に起きた。。
ドォン、と大きな音を立てて建物を一つ丸ごと潰す大型の吸血鬼。今まで見たことのない強大な力が、街を襲っていた。
「ロナルド!」
「マリア!ショットもか!」
「状況は?」
「雑魚退治は終わったが、大物がまだ一体残ってる」
ギルドの前。吸血鬼が暴れている方向を見ながらショットが言った。マリアとショットは担当箇所の雑魚たちを片付けてからやって来たらしい。
「それなら向こうは私と吸対に任せて!あなたたちは……」
「俺が行く!」
一緒に戦っていたシーニャの言葉を遮るように、俺は走り出した。そんな俺へとショットが声をかけてくる。
「おい、お前が行ってもどうにもなんねーだろ!」
「俺はこの街を守るって決めてる!」
退治人になった時に誓った。ずっとこの街に住むと決めた時に決めた。
「ロナルド!」
シーニャが腕を掴んでくる。力が強い吸血鬼相手には、人間の俺では到底太刀打ちできない事はよくわかっている。それでも行かなければいけない。
「かなうわけないでしょ!死ぬ気?!あなたが死んだら何にもならないでしょ!ドラルクもそれを望んでないわ!」
「……っ!」
シーニャが俺へと叫んだ。腕を掴んでいた力を弱め、そっと俺の肩へと手をおく。
「退治人ロナルド。あなたがここで死ぬのも、この街で死ぬのもドラルクは望まない」
「………あいつはもういない!やめてくれ!」
シーニャの手を振り払って走り出した。
今まで見たことない力を持った吸血鬼の足元に滑り込み、銃を構える。何発か撃つが効かない。
舌打ちをして一旦下がる。銃の薬莢を素早く入れ替えて再び構えた。普段使わない、銀の弾丸。
瞬間、目の前に下等吸血鬼の群れが襲いかかってくる。
「くっ…!」
腕でそれを防ぐようにした瞬間。腹部にドスンとした衝撃。視線を下げてみれば、腹に黒い闇が突き刺さっていた。
ごぼ。口から鉄の味がして、溢れる。ズルリと闇が身体から抜かれて、身体がグラリと揺れた。
痛い。熱い。再び口からごぼりと鉄の味を吐き出す。倒れたのだと理解したのは、星空が見えたから。
唸るような声に、銃を構えようとしたが腕が動かない。視線を動かすと再び黒い闇がこちらへと向かってきた。
死ぬんだ。そう思った。腹を刺されて、血を吐き出して、腕さえも動かせなくて、ここで死ぬのだと。
星の少ない黒い空を見上げて、思って目を伏せる。
『本当に君は馬鹿だね。ロナルドくん』
懐かしい声がした気がした。目を開けると、そこに黒いマントが見えた気がして、心臓がドクンと脈打った。
「ど…ら、こ……?」
『ロナルドくん』
そこにいたのは確かにあいつだった。俺の大切な吸血鬼。俺を置いていった吸血鬼だ。
『君という人間は本当に馬鹿で愚鈍でどうしようも無いなぁ』
ドラルクはそう言って、俺に指をさして笑う。その笑顔は、いつも俺を馬鹿にして笑っていたそれと何一つ変わらない笑みだった。
「な、で、…おま…」
ごぼりと血が吐き出されて、うまくしゃべれない。
だって消えたじゃないか。出ていったじゃねえか。俺を置いて、離れていったくせに。なんで。
銃を持つ指先が震える。目の前の光景が理解できなくて喉が震えた。
『まあでも、そんな君だから、私は君を愛してるんだけどね』
それだけ言うと、ドラルクは吸血鬼へと向き直った。
『私の愛しい退治人に手を出した罪は重いよ』
「……っ、ど…、こ……」
『これは、君を守るための私の力だよ。ロナルドくん』
そう言ってドラルクが笑った瞬間。ドラルクから放たれた黒い塵が、吸血鬼の腹部を貫いた。下等吸血鬼達はその塵に触れただけで、同じように塵となる。
『……おや、まだ動けるなんて。そこそこな高等吸血鬼という所か』
吸血鬼と目を合わせたドラルクがそう言った後、今度は大量の蝙蝠たちがその巨体を包み込み、大きな刃となって吸血鬼を切り裂いた。
それからはあっという間だった。圧倒的な力を見せつけてきた吸血鬼は、ドラルクの手によってあっけなく退治された。
『ふん、竜の血に適うわけないだろう。小物が』
ドラルクは言うと俺の横にしゃがみ込んだ。
そして、銃を掴んでいた右手に触れる。
『これはね、私の欠片だよ。ロナルドくん』
もう、声は出せなかった。息が上がる。視界が滲む。どういうことが分からなかった。何を言っているのか分からなかった。
欠片って、なんだ?
『君がこの銀弾を使うのは、緊急時だけって言ってたから』
触れているはずなのに、感覚がない。
ドラルクの手が、顔に近づく。
その手は、塵のような砂のようなものに纏われていた。
『君の銀弾に、私の血を染み込ませた。ごめんね、勝手なことして』
ドラルクが、笑った。
『君がこれを銃身に入れた時、つまりはそれは君の危機だ』
視界が涙で歪む。何も見えないほど、目の前がぼやけてしまうほど、涙が溢れていた。
『でも、間に合わなかったね…ごめん』
「……っ!」
声がうまく出ない。涙が邪魔して顔がよく見えなかった。でも、それでも分かってしまうのはなんでなんだろうか。視界が歪んでいても、ドラルクの笑みだけはよく見えていた。
『愛してるよ、ロナルドくん』
さよならを言われた時と同じ声色でドラルクは言うと、あの時の同じようなキスをした。
唇に触れているはずなのに、それはざらりとした砂のような感覚で。
ドラルクが消えるのと同時に、意識が途切れた。
そこは、知っている場所だった。
俺が壊した、アイツの城の玄関ホール。
『ドラルク』
知った声にそちらを向く。爺さんだ。俺の方を見ているはずなのに俺を見ていない。向けられているのは、俺の向こう側にいるドラルクだ。
『ああ、御真祖様。いい夜ですね』
『…これで、いいの?』
『いいんですよ。』
ドラルクが、笑う。いつも俺に向けられていた笑みに似ているようで、少し違うような、そんな笑みをしている。
『昼の子は』
『あの子は、あの子の生きたいように生きました。だから私もしたいようにします』
『そう、ドラルクがいいなら、いい』
爺さんはそう言うと蝙蝠になって出ていってしまった。
広い玄関ホール。大きな階段をゆっくりと登ったドラルクは、踊り場にある大きな窓を見上げる。
月が綺麗に見えて、月明かりがドラルクを照らす。
『……ロナルドくん、そこにいるでしょう?』
「……なんで、分かったんだよ」
『分かるよ。ここは私の城なんだからね』
ドラルクが、こちらを見た。俺の方を向いていた視線は、俺の足元へと向けられる。
『やっと、君を抱きしめられると思ったのにな』
寂しそうな声で呟いたドラルクの近くに行こうと階段を昇って、気がついた。
月明かりに照らされた俺の足は透けていて、後ろに影は無い。
『……俺は、死んだのか?』
「そうだね」
『そうか…』
「ごめんね、ロナルドくん」
ドラルクが俺の方へと一歩近づく。手を伸ばして、触れる寸前で細い指先の動きが止まった。
『……銀弾に、触るなっていつも言ってただろ』
「……そうだね、ごめん」
『大丈夫だったのかよ』
「直接は触れなかったから。…ねえ、ロナルドくん」
『なんだよ』
「私ね、消えるんだ」
『……ドラ公…それは俺のせい?』
「御真祖様にお願いして、君と命を繋いでもらった。君と生きれないってわかった時に決めた。だけど、まさか君がこんなに早く死んでしまうなんて」
ドラルクが、俺の頰へと手を伸ばす。触れた感覚は無いけれど、それでも暖かいのだけは分かっていた。
「ヌー…」
「おや、ジョン」
ふと足元にジョンが顔を出した。俺を見て「ヌヌヌヌヌン」といつもの様に鳴く。
ドラルクが抱き上げると、スリスリと頬を擦り寄せた。
「ジョンも了承してるよ、ロナルドくん」
『そっか…ごめんな、ジョン』
「イイヌ。ヌンヌ、ヌンヌヌイヌヌヌ、ヌヌヌヌ」
「ふふ、ジョンも皆でいるのが幸せだって」
『……なあ、ドラ公』
「なにかな?」
俺は一歩ドラルクに近づいて、その頬に触れた。感覚はない。でも、触れた気がした。
『お前と一緒にいた時間、俺すげー楽しかった』
「ありがとう、私もだよ」
『お前がいなくて辛かったよ』
「私も寂しかったよ」
『最期に一緒にいられて幸せ』
「うん、私もだよ」
『愛してる、ドラルク』
「愛してる、ロナルドくん」
ドラルクが笑う。それは俺が好きな笑顔だった。俺の記憶の中にいるドラルクと同じ顔。
さらり、とドラルクの耳が塵になった。
ドラルクの姿がゆっくりと崩れていく。それでもドラルクは笑う。笑いながら、俺にキスをした。触れた唇は暖かかった。それはとても優しくて離れ難く、このまま時間が止まってしまえばいいと思ったけれどそれが叶わないことは分かっていた。
ドラルクが砂になり、月明かりに俺が消えていくのを見たのは。
最後に目を伏せて丸まった、使い魔のアルマジロだけだった。
FIN